鶴崎について

鶴崎と幕末の志士

大野川と鶴崎  鶴崎は、大分県大分市の中で海に面した中心地にあり、美しい自然と活気あふれる町並みが特徴です。この鶴崎は、混迷の幕末、我が国を近代化に導き、現今の日本が先進国になる基礎を造った勝海舟とつながりがあります。

 勝海舟は、文政六(1823)年、江戸本所に生まれ通称、麟太郎(りんたろう)と呼ばれていました。十三歳で中津藩士の剣道師匠、島田虎之助について修行し、二十歳で免許皆伝を受けました。青年期には、蘭学を学び全五十八巻の日蘭辞書『ズーフハルマ』を、2年かけて筆写し二部完成させています。
 ペリー艦隊来航の攘夷(じょうい)の嵐の中では、対応に苦慮した幕府が対策を公募した際、優れた意見具申をして認められ、幕府中枢入りしました。
 勝海舟続いて長崎で海軍の技術伝習、遠洋航海術などを6年間で取得。幕府の特使派米の際には、咸臨丸で船長として万延元(1860)年にアメリカへ渡り、見聞を広め、幕政に多くの有益な建議をしました。そうして鶴崎生まれの学者秋山玉山の創設した時習館の俊英、横井小楠を訪ね海軍を論じたところ意見が一致し、将軍家定に海防の必要を説き海軍繰練所を創設しています。
 この時期、海舟を攘夷の敵とみていた坂本龍馬は、海舟邸で面談の際、彼の広い見識と人柄に惚れ門下生となった事は有名です。のちに薩長連合を成功させる龍馬の思想の根底は海舟にあったようです。
 海舟は、薩長、外様、幕臣を問わず海軍繰練所への入門を許し、龍馬をはじめ広く人材を集めて教育しました。そして、内戦の非を説き、鎖港の不利を説くなどした、幕臣でありながら幕政に反する海舟の先見性は、幕閣に容れらず軍艦奉行を罷免されてしまいます。が、しかし一年で復職し、以後、西郷隆盛との談判成立により江戸市民を戦火から救う江戸無血開城を始め、多くの困難に対処し、その功は実に偉大です。その勝海舟が鶴崎を2度訪れているのです。
 坂本龍馬を伴った海舟は文久四(1864)年二月十四日に大阪を出航、翌十五日、佐賀関入港、徳応寺に宿泊しています。坂本龍馬を伴った海舟は文久四(1864)年二月十四日に大阪を出航、翌十五日、佐賀関入港、徳応寺に宿泊しています。海舟日記によれば「二月十六日豊後鶴崎の本陣に宿す、佐賀関より五里、此地、街市、可なり、市は白滝川(大野川)に沿う、山川水清し、川口浅し、」とあり、

坂本龍馬(掲載許可:坂本龍馬記念館)         大御代(おおみよ)はゆたかなりけり 旅枕 一夜の夢を 千代の鶴さき

の一句が詠まれています。
 この歌からは当時の情緒あふれる鶴崎の町の風景が浮かび、感慨深いものがあります。 また四国艦隊との困難な交渉(下関攻撃阻止)のため、長崎へ赴く途中の難題山積の海舟にとって、鶴崎での龍馬との一夜の語らいの中でこの歌が詠まれたことは、実に感慨深い事です。
 海舟が再び鶴崎に来たのは西南戦争の四年前、明治六年六月十日で、このときの目的は、政変で野に下り帰省中の西郷隆盛との会談の為でありました。毛利空桑の日記には、勝海舟より呼び出しがあったとの記事があります。ただ何を話し、何を論じたのかか、その記録は残念ながら遺されていません。幕末の日本を代表する勝海舟が、激動、混沌のこのとき、ゆたかなこの国の未来に夢を馳せ、その想いを、このような歌に詠んだことは、鶴崎にとって、果ては日本にとって実にすばらしい史実であったと言うことが出来ます。
 この史実に鑑み、この歌が生まれたゆかりの地、鶴崎に歌碑を建立し、広く多くの人々に知って頂くことは、実に有意義な事業であると、信ずるものであります。ご賛同の上、ご協賛、ご協力をぜひお願い申し上げる次第であります。

                                            勝海舟の歌碑及び、海舟、龍馬の銅像を建てる会発足趣意書より